エコロジーや生態系を切り口にこれからの時代の人間観を探る領域横断型サロンEcological Memesの第六弾が9月24日(火)新宿の合羽坂テラスで行われた。
今回のテーマは「生命と日本文化~花を通じて考える自然との共生~」
株式会社デラシネ代表取締役であり、花人でもある山本郁也氏をゲストにお迎えして開催した。
会場は合羽坂テラス。暖かな雰囲気を創り出す内装はテーマにぴったり。
ゆったりとした長袖シャツにスラックス、靴はスニーカーというカジュアルな秋の格好で登壇した山本氏。お住まいの長野では朝9度まで冷え込んだということもあって長袖だったが、まだまだ厳しい残暑が続く東京に着き真っ先に後悔したそう。
数年ほど前に長野に移住した山本氏は、もともと東京を拠点にデザインに関する仕事をされていたこともあり、今でも毎週のように仕事で東京に赴いているそうだ。そうした経済活動に従事しながら、一方で家では静かに花をいける。そんな「2つの顔」を持ちながらバランスをとって暮らす山本氏に、今回は「花」というテーマを切り口に、日本文化や美学、そしてこの時代を生きる上で大切な価値観について話していただいた。
花には人間の意志と花の意志を尊重するいけ方がある
いけばなには多様な流派が存在するが、山本氏が行ういけばなにおいて中心となる考え方がある。それが「たてる花」と「いれる花」という違いだ。
「たてる花」とは、花入れ(花瓶)の中に人間の意志によって花「を」とめるいけ方。山本氏は藁を束ねたものを使って垂直に花を立たせる。このような花は元々神の依代(よりしろ)でもある「聖なる花」と呼ばれ、床の間の神に対してまっすぐ捧げることで、神が地上に降り立つ時の目印となる。
一方「いれる花」というのは、花入れに対して自然な形でいけることだ。花が水や花入れによって引っかかり、まとまっていくような花の意志を尊重したいけ方であり、自然に花「が」とまるのを大切にする手法だ。これは、ある意味誰でもできるいけばなであり、そのことから「素人の花」などと呼ばれることもある。ただ、誰にでもできるからこそ全身全霊で向き合うのが重要だと山本氏は強調する。「花は野にあるように」という利休の言葉にもあるよう、花と究極の自然体で向き合うということには花人としての誇りと責任感が伴うのだ。
命を奪い、命を救う花人としての責任とは
そもそも忘れてはいけないのは、いけばなを行う上で私たちは「命を奪っている」ということだと山本氏はいう。放っておけば生きていたはずの命を強制的に奪っているにもかかわらず、私たちは植物の命の尊さをともすれば忘れてしまいがちだ。
しかし花人にとって、花の命を終了させる責任感と覚悟というのは花をいける上で原動力となる。その尊い命を奪うからこそ、それによってより多くのものを救っていく。命を奪うと同時に活かす。そんな死と生の狭間で人間と自然の関係性を探求するのがいけばなという芸術であり、花人の生き方なのだという。
古代の文明から存在した「花をいける」という祈りの行為
現在のイラクに位置するシャニダールやナトゥーフ文化の遺跡で見つかった墓地には、それぞれ花が供えられていた痕跡が見つかった。これらはいずれも一万年以上前の古代文明であり、当時から人間と花は密接な関係にあったことを意味している。花は生と死の象徴の一つとして、ヒトの暮らしを支えてきた「人間最古の文化」なのではないかと山本氏は考える。
日本におけるいけばなの歴史も長いが、その知識・知恵の多くは口伝によって継承されてきた。教えることができる先生は極めて少なく、花の技術に関する本は稀有。その中でも日本最古の古典である「仙伝抄」は滅多に手に入らない代物なのだという。「まあ僕は3冊持っていますが」という一言に会場からは寡占ですねとツッコミが入り、笑いが沸く。
しかし、花の将来は決して笑い事ではない。本来「花をいける」というのは、神など「誰かのために」行う神聖な祈りの行為。これは私たちの多くが考える「いけばな(生け花)」、つまり気軽に日常を彩るための文化とは大きく異なる。ではその神的な行為はどのようにして現代の位置付けへと進化していったのだろうか。
近代の日本の発展に伴い花は西洋化されてきた
日本という国で花は元々男性的な文化だった。仏教の影響もあって全国に広がり、戦国時代には武士のたしなみとして普及。松の木を丸々一本いける、など大掛かりな作業もあったため、男性の力が必要だった。また、いけた花は床の間に飾られ、後ろは壁と掛け軸という「180度観賞型」の神への捧げ物だった。
しかし、明治時代に入ると良妻賢母教育が展開される。この男尊女卑的・儒教的な方針によって、花をいけるという行為は女性のためのものへと変化していく。
また、1933年には「新興いけばな宣言」が発表され、お花の世界に大きな影響を及ぼした。これにより古代から伝承されてきたいけばなが隅に追いやられる一方、斬新で近代的ないけばなが主流になっていく。この時期に日本で普及したフラワーアレンジメントと平行して、日本のいけばなは西洋的な「個人のための美を追求する」ものへと変わるのだった。
観賞の仕方も時代の潮流に沿って転じていく。元来、いけばなは床の間に置かれ、後方180度は作り手と神様にしか見ることができないものであった。それは、神の依代としての、人を超越した領域でもあった。一方では、現代では生活空間からは床の間そのものが姿を消し、お花は360度から観賞することが当たり前になった。私たちの生活における神の喪失とともに、花の行き場や目的も失われてしまったのだという。
日本人の美学あってこその「いけばな」
このように時代の流れとともに進化を遂げてきたいけばなだが、その究極の意味を探求する上で欠かせないのが日本人の美学だと山本氏は語る。
いけた花自体に価値はない。結果としてのいけばなだけであれば、いくらでも複製可能だからだ。それよりも大切なのが、誰かを救うための祈りとしてのいけるまでの営みであり、いけるという行為自体だ。自分の足で山に行き、花を摘み、手間をかけて、心を込めていけてあげること。あるいは、その花をどう見つけてきたのか、なぜその花を選んだのか、どう器に水を入れるか。そういったいけるまでの思考・行為にこそ人生の美学が宿るのだという。
日本人はなんでもないものを使って尊いことをすることが好きだ。「数少なきは心探し」というように、多くを説明せずに人の想像力を信じるのが日本人の美学。そうやって「花」そのものではなく、それをいけた人がどのような人生を歩んできたのかを大事にし、少ないものでもそこに美を感じ、「誰かのために」手間をかける。それこそが日本の花なのである。
「生きる感覚」としてのセンス・オブ・ワンダーを養う
「花のいけ方は、花に聞け」
そう山本氏は教わったそうだ。この花との向き合い方に共通するのが、参加者とのダイアローグの中で出てきた表現「センス・オブ・ワンダー」だ。これは自然などとの触れ合いの中で感じる不思議さに興味を持つ感性のことだが、山本氏はこれを誰もが子どものころから自然と持っている「生きる感覚」だと言う。
小さい頃「自然の声が聞こえた」ことや「動物の心がわかった」ことはないだろうか。それは大自然の真っ只中に身を置いたときに、ふと、訪れたりする感覚だ。まだ論理的思考、いわゆる「理屈」が発達していない子どもたちは、自分たちの周りで起きている現象をありのままに知覚し受け入れる。そうしたときに理屈では説明できない生命の内なるエネルギーを感じ取る感覚が養われるのだ。
このような感覚は年を重ね、社会の規律に縛られることで失われていきやすいのではないかと山本氏は言う。大人はどのような物事に対してもわかることを前提とし、理由を求めたがるからだ。都市化が進み、自然との距離が広がりつつあるこの時代だからこそ、子どもの頃の「生きる感覚」をもう一度呼び覚まし、「花の声」に耳を傾けることで、私たちが抱く内なる問いへの答えが自然と見つかるかもしれない。
いつも心の中に床の間を
お花は、人類が古来から文化的な存在であることを改めて思い出させてくれるが、一方で今、生活様式の変化によって暮らしの中から床の間が失われ、神との結びつきや祈りの機会も減ってきた。そうした中で、現代人は急速に「動物化」しているのではないかと言う。
人は古くから文化を築き、暮らしや人生の中に美や徳などの意義を追い求めてきたが、急速に移り変わる時代に生きる私たちは、便利を追求し、手間を嫌うようになった。身の回りのことを考えるので手一杯で、気づいたらお金・資本のあとを追っていないだろうか。都会の喧騒を当たり前に思い、静かな時間や自然とのつながりをもつことの大切さを忘れていないだろうか。
そんな時代だからこそ、人生や人間存在とは何かについて深く考えを巡らす余白を持つこと、すなわち、心の中に床の間を取り戻すことが大切なのではないかと山本氏は語る。
自分の好きを生きる勇気
冒頭で説明したように、山本氏には株式会社デラシネの代表取締役という顔と花人としての顔がある。
四六時中経済活動という生活に彩りを加えるべく、思い切って長野の山間部に引っ越し、花と向き合い始めたころ。自然の中で暮らすことに新鮮な喜びを感じていた一方、収入など現実的な問題も脳裏をかすめ始めていた。
「自分の好きなものは何なのか」
「ともすればそれは人が好きと言ったからではないのか」
心の内側に様々な疑問と不安が生まれる中で、山本氏はずっと自分に言い聞かせた。
「人の好きを生きることは安定だが、自分の好きを生きることは勇気だ」
様々なことが予測不能になった現代社会。外に目を向ければ「幸せになるための10の法則」などという自己啓発が蔓延り、どんな情報も目と鼻の先にある。しかし、膨大な情報の渦の中に生きる今だからこそ、外ではなく「内」に視点を戻すべきではないだろうか。他人が何を言おうと自分が真に「好き」と言えることをひたすら追求する。その勇気が、自らの未来の幸せを手にする鍵となる。今回山本氏は、そんなメッセージを届けてくれたのではないだろうか。
なお、会場の雰囲気をすくい取るような、素敵なグラフィックレコーディング&撮影はフリーランスユニット・テクストの庭の皆さんにご協力いただきました。ありがとうございました!
編集後記:そもそもわからない世界をわからないまま受け入れるということ
日本の文化に触れたことがある人なら誰もが思い描くことのできる、床の間にたてられた花の姿。その背後は元来、神の依代として、作り手と神様にしか見ることができないものであり、人の世界を超越した余白(スペース)として暮らしのすぐそばに在った。そうした風景が日常から失われてしまってきたことの意味合いをどう捉えるか。そこに山本氏の最も大切な提起があったように思う。
参加者とのダイアローグの中で住職の方が、仏教でもこうした「元来180度であったものの360度化」が進んでいるという視点を持ち込んでくださった。仏教では、例えば此岸と彼岸など、この世界にはそもそもわからない次元・領域が存在するという「180度的」な世界観があるが、最近はあらゆるものを「わかる」ために仏教を求める人達が増えているように感じているという。
スマホの画面の1分1秒を争い、わかりやすさがとにかく追求されてきたのが近年の情報化社会だ。裏を返せば、「わからないもの」に対する耐性が失われている時代とも入れる。
だが、その「わかりやすさ」に没頭するあまり、私たちはあらゆるものを「わかる」という前提で世界と対峙してしまっていないだろうか。人がこの世界で起こることを全て「わかる」前提に立つからいろいろなことがチグハグしてしまっているのではないか。
人智を超越した不可知の世界の存在を受け入れることは、人間が自らの絶対性やコントロールを手放し、畏れと向き合いながらも、宇宙や自然と共に生きるということでもある。
そもそもわからない世界をわからないものとして受け入れること。
そのわからなさに人は花と祈りを捧げてきたのかもしれない。
Text by Shuhei Tashiro Edit by Yasuhiro Kobayashi
Graphic Recording by 藤田ハルノ&TSUBU
Photo by Tomoko Hirayanagi
田代 周平 Shuhei Tashiro
ユトレヒト大学卒、人類学・哲学(リベラルアーツ)。戦略コンサルティング The Young Consultant にてプロジェクトマネージャーを務めた後、WWOOFを通してパーマカルチャー・自給自足について学ぶ。国際NGOでの通訳の仕事を経て、現在は株式会社BIOTOPEにて Ecological Memes の企画・発信に携わる。ユース海洋イニシアチブ Sustainable Ocean Alliance Japan 旗振り役。趣味として自給自足型ライフスタイルの探究・実践を行なっている。
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